イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

究めれば、言葉は交わすまでもないもの。

自分で言うのもなんだけれど、僕は「言葉」の扱いというものに対しては、多少卓越しているように思う。もちろん、詩人さん、歌人さん、エッセイストさん等々のプロにはかなわないけれど、少なくともこうやって日々、言葉を見つめ、書き連ねてきたという自負はある。 だからこそ、「言葉なんて信じちゃいけない」という思いが出てくる。これはきっと、剣術の達人が「刀など、抜かないほうがいい」と言うようなものだと思う。刀を抜いてしまえば、どちらかがほんとうに傷ついてしまうから。そういった危うさを持っているのが刀であり、それを越えるために剣術を究めるわけだね。 言葉だって同じ危うさを持つ。だから、それを越えていく必要がある。僕が言葉の達人だというわけじゃないけれど。でも、そのような境地の存在が分かるくらいには、言葉を見つめてきたのでしょう。言葉を究めれば、言葉を交わす必要すらなくなるもの。刀の達人が空に向かって、刀を振るうだけで十分なように、言葉も空に向かって投げかける、あるいは携えているだけでいい。それを詩と、呼ぶのかもしれないね。 僕がこういった、誰かに見られるかもしれないけれど、誰に届けるためでもない場所で、ただひたすらに言葉を紡いでいるのは、多分、そういう意味だ。稽古であり、全てだ。言葉を届けようと思うならば、届けようと思ってはいけないからね。包丁で食材をうまく切るには、切ろうと思ってはいけないでしょう。言葉も同じで。リズムを奏でる。言葉を置く。そういったことだね。
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