イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「たんぽぽ」と「イコール」、あるいは実在

昨日、歩きながら考えていたことを書くんだけれどね。例えば「たんぽぽ」ってあるでしょう。たんぽぽ、って言われれば、皆さんあの道端に咲く花を思い浮かべるでしょう。もうすこし見つめれば、色や形が鮮明になったり、あるいは教科書で見たような凄まじい根っこの図なんかを思い出したりする。でも「たんぽぽ」は実在するでしょう。 一方で、「イコール」っていう言葉があるでしょう。でも、この「イコール」って言葉を見つめても、「たんぽぽ」のような実在は出てこないでしょう。がんばってみても、「2つのカゴの中にリンゴが2つずつ入っている映像」とかになるけれど、これも実在しているのは「カゴとりんご」であって、イコールではないでしょう。 で、僕は「イコール」みたいなハナシよりも、「たんぽぽ」のハナシをしませんか、と常日頃思うわけだね。頭をひねっているとつい、「イコール」のほうに引っ張られそうになるんだけど、そっちは存在しないんだから。「たんぽぽ」のことを考えましょうよ、と。でも、気がついたら「イコール」に引っ張られるんだねえ。 一つは、「イコール」とかの言葉には、身体性がないんだね。だから身体を使わなくても扱えるんだ。「たんぽぽ」について真剣に考えるなら、ちゃんと見るとか、触ってみるとかの身体性が伴う。でも「イコール」にはそれが要らないから、簡単なんだろうね。でも、それをやっていると、気付いたら浮ついた空中戦みたいなハナシになってしまう。空論ってやつだ。 考えるとは結局、身体性を伴うんだろう。一方で時代はどんどん身体性を失っているから、考えるということはどんどん難しくなっているのかもね。身体性のない情報ばかりが、次から次へと飛び込んでくるでしょう。 生成AIもそうだね。彼らは「たんぽぽ」の実在は知る由もないんだ。そう考えると生成AIには構造的に致命的な欠点があると言えるね。「たんぽぽ」はそのまま、「能登半島地震」と言い換えられる。
前へ
一覧