見えやすいレンズと世界の解像度
昨日の続きで松岡正剛さんの「稼ぎ」と「務め」のハナシなのだけれどね。この概念を知れたことが本当に嬉しくて、いろんなことが説明つくかも、とふわふわ考えている。
例えばベーシックインカムなんてのは「稼ぎは社会が保障する」「その上で果たしたい務めをとことん果たしなさい」という施策でしょう。稼ぎを質に入れて果たしたくない責務を背負わされる——そんなやりがい搾取じゃなく、稼ぎはどうとでもなるという状態にした上で、務めを果たしましょう、みなさん、と。そう書くと随分と健全な試みだよね。財源とかの面倒なハナシはあるにしても、「人が働かなくなるんじゃないか」みたいな議論はちょっとピントがズレているんだと気付ける。
あとは、そうだな。稼ぎを作るのは技能だけれど、技能だけじゃ務めには繋がらないね。社会や世界にちゃんと作用し、それらが廻る、流れる一助にならなきゃ務めにはならんわけでさ。江戸時代の火消しの方々は「大工技術」という技能を以て稼ぎながら、それを応用して「火消し」の務めを果たしていたわけでね。だから技能じゃなくてそれを以て何を果たすか、という部分を抜きにすると、まぁそれはつまりBullshit Jobと呼ばれるモノになるんだね。稼ぎにはなるけど、喜んでいる人は少ない、みたいなね。
稼ぎと務めを「労働」という風に一緒くたに捉えてしまうと、今書いたような解像度で物事を捉えられなくなるわけだね。こうやって言葉を知っていくことで、世界を捉えるレンズがどんどん増えて、世界の解像度がどんどん上がっていくのが、僕はとても好きだし、本を読んだり対談を聴いたりコンテンツを漁ったりする醍醐味だね。
多分だけど、僕は何かしがの問題にあたるとき、自分の在庫にあるレンズを取っ換え引っ換えして、一番解像度が良い、見えやすいレンズはどれかなーーといったことをブン回しているのだと思う。眼科医さんの視力検査みたいにね。そして、その根底にあるのは「ひたすらにレンズを仕入れて遊んでいる」というところなのだろう、きっとね。
そしてまぁ、このレンズの在庫というのは、手渡しはできないんだなあ。「ほら、このレンズ見えやすいよ」ってのはできないんだなあ。まぁそこが難しいというか、無理筋なところでもあるんだけれどね。