「難しい」の麻薬
僕はあまり問題に対して「難しいよねえ」といった結論に持っていくのが好きじゃない。結構言っちゃうのだけれど、毎回、易きに逃げてしまったなと落ち込むばかり。なぜなら、「難しいよねえ」っていうのは、少なくとも僕にとっては白旗宣言だからだ。難しいモノをカンタンにするのが、僕は務めだから。
「難しい」というモノは、実は存在しないようにも思う。別の何かが目の前にあって、僕らはそれに対して「難しい」というラベルを貼っているのだ。例えばそうだな、100mを6.0秒で走るのは、「難しい」ではなく「無理」だし、あるいは100mを10秒で走るのは「難しい」ではなく、それを成し遂げるための訓練や肉体が必要なだけだ。そして、その先にあるのはやっぱり、その訓練・肉体作りが「有理」か「無理」かの2択になる。「難しい」や「易しい」はない———ような気がする。少なくとも、そういった限界ギリギリのポイントにしか「難しい」は存在しないように思う。日常において遭遇するようなことじゃない。
あと「難しい」って言うと、それだけでちょっとうっとりできるんだ。「僕らは難しいことに立ち向かっているんだぞぉ」と。それは「最先端」とか「多忙」とか「SDGs」とかと似たような恍惚感。意味があるんだと思えてしまう。つまり、こういうとアレだけど、僕らは自分たちが取り組んでる問題を難しいモノにしてしまいやすいんだ。物事を難しいと定義するには動機もメリットもあるのさね。
だから「難しい」という出口には持っていかないようにいつも思っている。「難しい」と言うくらいなら「無理」のほうがずっといい。割り切れるからね。「難しい」はエネルギーを食いつぶす危険もあるから、無理なら無理でバッサリしたほうがずっといい。だから、僕は「それは諦めようよ」とか「それは仕方ないね」っていうのはよく言う。それは、他の人よりも言っているんじゃないかな。