遅きに失さないために、立ち止まる
今日も松岡正剛さんの言をまた拝借して書き始めるのだけれど。彼は、昨今のホモ・デウスといった文明論・倫理論は、「1世紀くらい前に終えているはずだった議論であり、遅きに失した」と話していて。この「遅きに失した」というハナシをしていて、そのハナシ自体もそうだけど「遅きに失した」という表現のほうにも僕は感激をしていて。「遅きに失する」ってことは往々にしてあるよね、と。
たとえば最近の生成AIとの向き合い方みたいな議論についても、そういった課題が生まれるということは昔からわかっていたことだし、リモートワークとかコロナとかも、ずっと昔から「世界はそうなっていくよね」というのはわかっていて、そんな時のために考えておきましょう、実験しておきましょう、といったことはずっと言われていたのだけれど、ついには間に合わなかったわけでね。「コロナは風邪」みたいな議論を一笑に付せず社会を巻き込んだ議論にしてしまったり、リモートワークの是非みたいなのが未だに騒がれるわけでしょう。少なくともSkypeが生まれた時点でそんな議論・検討はできたはずなのに。
で、課題が目の前に出てきて必要に迫られてから考えはじめるもんだから、「結局ダメだよねー」みたいな易い結論になっちゃうわけだ。もっと早くに議論していれば、「こういう使い方をすれば効果的だね」というハナシにできたはずなのに、「利益に繋がらないからダメ」「生産性が下がったからダメ」みたいな易いハナシになっちゃうわけだ。
これはつまり、賢いとか賢くないとかじゃなくて、遅きに失したんだよなあ。特に最近は技術の発展がすごい早いから、遅きに失しまくりなんだよね。IT分野とかついてくのに必死で、時代が来てからその時代について考え始める・・・というのじゃ間に合わないんだよね。
そこに対する特効薬に一つが、「ついてくのをやめて、一回佇んでみる」じゃないかな。逆説的だけどね。「遅きに失する」に対応するためには、より早くなろうとするんじゃなくて、佇む必要があるのだと思う。