イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

ただのとりとめのないハナシ

今日はちょっととりとめもなく書いて、とりとめもなく終わるだろうけど、とにかく書き始めるぞ。 気付けばもう10年くらい前だろうか。僕は著しく健康を崩してしまい、二度とそうはなるまいと思って論文をあさっていた時期がある。お医者さんの言うことや世にはびこる健康テクに辟易して、「世界の英知である研究論文が一番いいのでは」と読みあさった。多くの実験、サンプル数を積んだ分析論文をひたすらに読みあさった。今はあそこまで過激ではないけれど、あの頃に学んだことは間違いなく血潮になっていると思う。 さても僕は同時期に、詩をよく書いていた。世界には理系的な定規では捉えきれない世界があり、詩を書くことで、そういう理系的・デジタルが届かないところにそっと触れることがある。その感覚が好きで、僕は詩を書くし、芸術にも触れる。そういえば昔の教科書で読んだ「おれはかまきり」という詩が僕は今でも好きだ。「おう なつだぜ」このはじまり方。「おれはかまきり」が届く世界には、どんな論文や数式などの理系的技巧を積み重ねても届かないだろう。 世界には深みがあり、種類があるんだな。いや、僕らの捉え方に深みがあるのか。結局世界とはそれぞれの人たちがそれぞれに勝手に捉えているだけだからね。うーん、そういうことを考えると致命的な思いにも、救い手のような思いもなるけれど、まぁそれはさておきに。最近の僕は、理系的な、デジタルな世界にはあんまり深みがなくなってきたなあと思っている次第で、もっぱら詩や、質感や、アナログの世界に入り浸っている。世界は、目の前にしかない。そんな感覚。 ちなみに僕が全く捉えられない世界が「子どものいる世界」だ。この間、友人のBBQに参加した時、同じ参加者のお子さんがいたのだけれど、一緒に遊ぶのはすごい困惑した。全くわからなかった。こんなにわからないことがまだあるなんて、という奇妙な面白さ、興味深さはあったけれど、あの子たちが楽しんでいる世界に、ついぞ僕は届かなかった。一方で僕が「人たらし」と呼ぶ後輩は、誰よりもその子どもの世界につかりこんでいて、すごいなぁ、と漏らしたものだ。 あの世界がわかる時は、僕に来ることはきっとない。同じように、僕のいる世界に来れない人も、いっぱいいるだろうな。世界は、人は、繋がってなんかいないんだ。
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