バタフライと分析疲れ
「分析疲れ」みたいなのが近いうちに来るんじゃないかな、とふと思った。いや、多分もうすでにそれは発生しつつあって、そこにまだ名前がついていない段階なのかな、と思う。ちょっと前にビッグデータというモノが持て囃され、データアナリストというお仕事が脚光を浴び、最近になってAI分野が「大量データ×大量分析」を爆発的に成長させた。おかげで僕らは誰でも分析道を突き進めるようになった。
ただ、それらはいまいち広がりを持ってはいない。粒度があがっただけなのさ。重箱の隅の分析を進めても、重箱の総体的なクオリティにさほど影響を与えない。でも、その分析がいくらでも出来てしまうので、みんなで高性能顕微鏡を持ち寄って重箱の隅をひたすらに分析をして、改善しようと試みている。
でも、どれだけそれを持ち寄って重箱の隅の分析レポートや試作を打っても、重箱が良くならない。そしてまた高性能な顕微鏡を持ち出す。あるいは更に高性能な新・顕微鏡に手を出す。こういうループが続けば、おそらくいずれは「いくら分析しても良くならない!」ということに辟易して、分析疲れを起こすんじゃないかな、と思う。それはきっと「分析ではないところに正解がある!」という反動となる。
生成AIがどうのというつもりはないのだけれど、多分、そのルートで「なんか、いいねぇ」を捉えられるようになるのは、ずっと先なんじゃないかなあ、と思っている。というか「なんか、いいねぇ」は逃げ水のように追いかけても届かないんだと思う。平成初期に流行ったセンター分けの髪形が平成後期にはダサイものになっていき、そして令和になってまた、流行り出すようにね。
分析から離れるべきだと言うわけではなく、分析には「諦め」がセットにならないといけないんだな。「諦めて手を動かそう」と。人間にも地球にも寿命があるんだから、「諦めて手を動かそう」ってしないと間に合わないんだな。
そんなことはカオス理論、バタフライエフェクトなどで60年前くらいには言われていたことではあるんだけれどね。「いくら分析しても無理ッス!」ってことだから。顕微鏡が現実を完全に捉えることはできないのだから。