水が飛び散ること
普段歩いている道には、小学校や保育園がある。その横を通るのが僕はとても好きだ。先日そこを歩いていたら、花壇に水をやるためのジョウロに水を入れている子たちがいた。6人くらいで、それぞれがそれぞれのジョウロを持っていたのだけれど、なにやら賑やかに騒いでいた。
少し気にかけると、どうやらそのお水を入れる蛇口がちょっと壊れかけているのか、水が飛び散ってしまうようで、それに対してやいのやいの言っていた。「こうすればいいんじゃ?」「あぶないぞ、とびちるぞ!」みたいなことを騒ぎながら。なるほど、それはたいへん、一大事だ、騒ぐに値するぞ、と思って通り過ぎた。
いつからか、ああいうことが「面倒なこと」「苛立つこと」になってしまっている。家で水が飛び散ったら「なんだよ面倒だなあ」と思ってしまう。実際面倒なんだけれど、それで苛立つのはお門違いだよなあ。ああいうふうに賑やかに騒ぐだけでいいのさ。フラットな気持ちでいて、「わぁ、大変だ、どうしよう」と。
面倒なのは、おそらくその事件によって「やりたいこと」が犠牲になるからだ。その時間がなければ、もうちょっとゆっくりできたかも。家を出るのが早かったかも。そういうのが思い通りにならなくなるから、苛ついちゃうんだ、きっと。でも、それはお門違いだし、あまり良い心持ちじゃない。
たまに「1分1秒も無駄にしない」みたいな姿勢を目にすると、それはそれは素晴らしいなあ、と思いつつも、そうやって命を懸けてやっていることは、「水が飛び散ること」よりも大事なことかねえ・・・と思う。むしろ水が飛び散って「わぁ、どうしよう」と捉えて考えることのほうが、「1分1秒も無駄にしない」に近い気もする。少なくとも僕にとってはそうだ。
そもそも1分も1秒も、あるいは「無駄」もその逆の「有益」も、人間が勝手に決めたこと。在るもののように扱ってはいけない。What is 有益?What is 普通?すべてそうだ。水が飛び散ることが「楽しい」なことだってあるわけだ。