考えるとは、考える必要がなくなること
考えるとはどういうことか。僕はそこには身体性が必ず伴うと思う。つまり、机の前でうんうん唸る、ということだけでは、考えるということには入らない。それはなんか、お茶を濁しているだけなんだよな。具体的に考えるということは、身体性——行動や感覚が伴うこととセットなんだよ。
例えばそうだな、キャッチコピーを考えるなら、書き出したり、世の中の言葉を読みあさったり、あるいは散歩したりね。そういう感受をグルグルと回し、それらを脳内で編集する行為が「考える」なんだね。インプット・エディット・アウトプットをグルグル回すことが考えるということ。そして、それを突き詰めていけば、いざ何かをする時に「考えるまでもなくなる」という状態になる。それが考えるということ。考えることを突き詰めていけば、考える必要がなくなるのだ。「エディット」が磨かれているから。
先ごろ、「ただ反射的に言葉を投げ返しているだけなのと、頭の回転がはやいということは違う」という言葉を見かけた。言いたいことはわかるけれど、僕はわりかし同じだと思っている。違いは、エディットの部分がどれだけ磨かれているかだけじゃないかな。そもそも「頭の回転がはやい」ってのも、比喩であり、つまりは受け取り手が勝手に決めることだしな。逆に言えば、反射的に言えるくらい身体にフィットしていない考えは、まだ考えが足りないということだとも思う。
昔、島田紳助さんが、「話の上手いやつは作り話であっても、自分をその中に置けるから破綻しない」といったことを話していた。その作り話の中に自分ごと入れるから、たとえエピソードトークの本筋とは関係ない「その歩いている道の広さはどんなもんなん?」と聞かれても「2mくらいかなあ」と答えられる、と。それはその場で考えているのではなく、身を置いているから、それこそ反射的に答えられる。
「普段から外に出て、何でも経験しとかなアカン」とも言っていた。そうすることでエピソードの種が生まれていく、と。そういうことだと思うなあ。彼は——というか多くのプロの噺家さんは、そうやって色んな経験を積み重ねては「エディット」を磨いているのだと思う。それは頭の回転がはやい、といった話ではないよな。