イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

普段の生活で済ましておくもの

思えば10年ほど前から、「頭を使うこと」の礼賛は始まりつつあったように思う。おそらくITの発達によって個々人の生産コスト・ハードルが下がりつつあってさ。それがある臨界点を越えた時点で「賢さが、生産労力に勝る」みたいなことになってしまったんだと思う。あるいはGAFAなどが台頭してきて、それらに対抗しようとして「もっと賢くならなきゃ」みたいな力学が強まったのかもしれない。 例えばお仕事なりなんだったりで成果を出すと「賢いですね」という評価を得ることも少なくない。「どうすればそんな風に考えられるんですか」みたいな質問を受けることもある。僕はいつもそこで説明に苦慮するのは、別に考えているわけじゃないからだ。 じゃあ何をしているかと言えば、一番は「見たまんまに見る」ということだ。「見たまんまを捉える」のほうが伝わるかな。たとえば、自転車が壊れた時に、まず自転車をじっくり見るのと同じ。チェーンが外れているのか、ブレーキがバカになっているのか。ギアが錆びついて動かないのか。それを見る。見てもわかんなければ、もっと見る。そして原因がわかればそこを直すだけ。そこに「考える」は介在しないんだね。賢さは要らない。 だから、「どうすればそんな風に考えられるのか」という問いがそもそも間違っている。むしろ、いかにして考えというモノを持ち込まずに見たまんまを捉えられるか。 そして、逆説的なんだけれど、いかにして考えずにいられるか。そのために、四六時中、考えていると言ってもいい。別に意識して考えるわけじゃなく、普段の何気ない生活の中で、でも何かしがを受け取って考えている。自転車についても、僕は自転車の修理なんてしたことはないけれど、自転車が壊れた時に「チェーンって外れやすいんだなあ」とか「ブレーキがバカになることがあるんだなあ」っていうのを受け取っているから、さっきの文章が書けるわけで。それを「考える」というんだな。 まぁ、その場で考えているという時点で、遅きに失しているか、考えなくてもいいことを頭で回しちゃっているかのどちらかじゃないかね。あまりよろしくはない。考えるってのは普段の生活で済ましておくものさ。きっとね。
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