書き置いただけでOK
知人との会話で気づけば他者の話になって、「僕は他人のアイデンティティにあんまり興味ないんですよ」という話になった。こういう話をしてあまり理解していただけることは少ないのだけれど、おおよそこのことに対して1時間くらい話した結果、「それはそうかも」と理解を示してくれた。と、同時に「それは特殊能力ですね」とも評された。
たとえばここに今書いた話も、「このことを理解してもらえたかどうか」には興味がない。僕がそこを言語化して言葉にして、それを投げかけた。それを君が聞いている。それだけで僕は全部OK。だから、これを聞いて理解してくれなくても、何も傷つかないし、逆に理解を示してくれても、ほとんど感慨はないんだ。と、こんな話をした。
一方でその彼は、「伝えたことが理解してもらえないと落ち込む」のだそうだ。もっと上手い言葉を使えばよかったんじゃないか、説明が不足していたんじゃないか、と。だからこそ、理解してもらえたかどうか、あるいは他者が何を考えているのかをすごく気にしてしまうそうだ。おもしろい。いやあ、おもしろいなあ。
もちろん僕も他人を気にしないことがないわけではないのだけれど、それでもそれはあくまで僕の自分勝手な気配りだ。こうしたら嬉しいんじゃないかな?と思って行動を起こすことはあれど、その結果、相手が本当に嬉しいかどうかは関係ないし興味もない。行動をした時点で目的を達成しているんだな。だからその結果もしかしたら相手が傷つく結果になっていたとしても、割り切れてしまう。そりゃあ避けたいのだけれど、傷つけまいとした結果傷つけてしまったのなら、それは悲しいけれど仕方がないし、ある種の愛おしさも同時に感じるよ。
と、まあこんなことをちんたら話していたらこんな時間になって、今日が終わるまで1分を切ったところだ。この文もまた、何かが誰かに届けばいいと思って書いてるけど、届いたかどうかに興味はない。投げかけただけで、書き置いただけでOKなのさ。