イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

言葉へのピント

最近はよく「ピントがあっていない」という言い回しをする。何かしらの物事に対する解像度に対してズレが生じていると感じる時に、ちょっと前までは解像度の高低で表していたことがあったのだけれど、それはちょっと違うかなあ、と思ってね。 結果的に言っていることは同じなのだけれど、それこそ「ピントがズレている」という言い方をしたほうが少し発展があるかなと思ってね。解像度が違うよね、っていう言い方をするとなんだか望みがないように聞こえてしまうけれど、ピントがズレているんだったらやりようはあるように聞こえるでしょう。ハナシがちょっと進みやすくなるかな、って。 それでいうと、昨今は特に「言葉」「文章」というモノに対して、ほとんどの人がピントが合っていないんじゃないかなあ、と思うよ。だから変な誤解が生まれて、その誤解を解こうとしても、結局ピントがあっていないから、その誤解は広がるばかりで———そういった誤解の連鎖が世俗を見ても、お仕事を見ても感じるよ。 その大元は、「言葉そのものにピントがあっていない」ということなんじゃないかあね。それはある意味では、世界にピントが合っていないとも言えるよな。人間はどうしても言葉の生き物だから、言葉のピントが合っていなかったら、そりゃあ社会活動は厳しいんじゃないかね。 と、まぁそんなことを良いながら、一方で社会とソリが合わないのは僕のほうだから、案外とピントがズレているのは僕のほうかもしれないけれどね。
前へ
一覧
後へ