イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

ノスタルジーはファンタジー

僕らがやっていることなんて、大したことじゃない。だから、俯瞰的な視点に立つと、僕らは成長していないように見えてしまう。でも一方で、僕が生まれた頃にはスーパーファミコンがあり、バブルは崩壊していた。今の中学生が生まれた頃には、すでにLINEがあった。この違いは凄まじいよな。 僕が小学生の頃はまだ、友だちと遊ぶためには友人の家に電話をかけなくちゃいけなかった。相手の親が出て「りゅーへいくんはいますか」って聞かなきゃいけなかった。あるいは、それが面倒だから放課後に解散せずにずっと遊んでいた。あの頃にLINEがあったら、どうなっていただろう。 逆もそうで、生まれた頃からLINEがある子たちは、友だちの家に電話するなんて考えられないだろうと思う。僕らがバブル時代のドラマをある種のファンタジーだと思うように、彼らも僕の子ども時代をファンタジーと受け取るだろう。そもそも友だちの「家の電話」ってあるのか? 誰かのノスタルジーが誰かのファンタジーであるというのはおもしろいね。なんだったら僕は小さい頃は、博打で友だちの家に行ってた。インターホン押してさ。「ユカちゃん、あーーそぼー」ってしてた。すごいな、子どもの頃の僕は。で、その博打が外れることもあって。でもそんなの今の時代ではファンタジーだよな。LINEせぇよ、みたいな。 「いつでも繋がれる」ということは、「いつでも孤独でOK」ということでもあるよな。だってLINEできるから。カフェで独りで勉強して、時間になったら友だちに連絡できる。僕の子ども時代は、一度「カフェで独り」になってしまえば、もう友人とは偶然でしか会えない。だからこそ、「放課後解散しないで日暮れまで遊ぶ」という時間があった。 メタバースという単語が少し前に流行ったけれど、思えばLINEだったりSNSだったりで、すでに「デジタルの世界」があるということでもあうよな。現実でカフェにいようと、グループLINEという次元では一緒にいる。多次元化してると言えなくはないよな。
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