イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

君がいなければ今はなかった

自分が「間違ったことをしたのか」と悩むことは、きっと誰にもあるのでしょう。僕だってあります。 良いことだと思ってしたことが、実はあまり良くなかったんじゃないか。むしろ誰かを傷つけたんじゃないのか。僕が何もしないほうが上手くいったんじゃないのか。余計なことをしたんじゃないのか。そんなことは考え始めればキリがありません。考えようと思ったら1時間前の行動でさえそう思えてしまいます。 先日、知人と話したときに知人もそんな話をしていたんだけれども。そこで僕が言った言葉が、実は自分にとっても救いになるような、そんな良い言葉だなあ、と思って今でもホクホクしている。 「もしかしたら君が何をしなくても、あのトラブルは解決したかもしれないね。でも、君がいなければ、あのトラブルは今のような解決の仕方はしてなかったよ。」 こんなようなことを言った。これは、良い捉え方だなあと、今書き起こしても思うよ。むしろ僕が言われたかった言葉だろうね。 でも本当そうだなあ、と。僕がやってきたことも、余計なお世話ばっかりだろうし、誰かを傷つけたりイヤな思いをさせたりは色々あるだろう。でも、きっとソレがなかったら今のこの場所には辿り着けていないし、なんだったら先ほどの知人にあのような言葉を投げかけることもできてない。それは少なくとも、自分がなんらかを選んだということであり、そこにいた意味は少なからずあるということだ。 きっと貢献とか成果とかも、僕は近いことを考えているように思う。もちろん具体的な物的成果も大事だけど、「そもそも君がいてくれているだけで、やれることが増えているよ」ということもあって、それは間違いなく貢献であり成果だから。僕は自分のチームはそういうものでありたいね。
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