その言葉の中身は意外とバラバラ
他者との関係性の捉え方が、どうやら人と違うっぽいぞ?と思ったのは高校生の頃。それが今になって思うのは、なんか「友だち」とか「恋人」とか「家族」とか、使う言葉が同じだけで、その中身はみんなバラバラなんじゃないかな、とは思う。
例えば僕は「友だち」と「恋人」の境目はほとんどない。家族は「血縁」っていう事実があるけれど、友だちも恋人も他人だろう。「一緒にいると楽しい。でも四六時中は疲れるよな」っていうところも同じ。で、その関係性における季節によっては「親友」の季節もあれば「恋人未満」みたいな季節もあるし、「疎遠」な季節もある、ってだけで、移り行く感覚なのさ。
一方で、こう、特に女性に聞くとそうなんだけれど「友だち」と「恋人」とは、明確に分かれているというでしょう。BOX自体が分かれてて、友だちが恋人にコンバートすることはない——そういう世界観の方もおられるでしょう。同じ「恋人」っていう言葉は使っているけれど、この2つが表現している関係性はもう違うモノでしょう。
友だちというのもそうで。そういうグループ分けをすると、まぁその中の中心にいる方もいれば、端っこのほうにいる人もいるでしょうけれど、そんなグループ分けはあんまり意味ないよな。友だちかわかんないけど、「飲みにいこうよ」って言える人がいればさ。その人が仕事仲間だろうと友だちだろうと古い知人だろうと、どっちだって良い。そういう人がいるということのほうが実在なのだからね。
まぁ、他方で社会的・文明的ルールとしての「友だち」「恋人」ってのはあるから、まぁそれは気をつけなきゃいけないなぁ、と思ってはいるけれどね。たとえば「あぁ、女性と2人でメシに行く、ってのは、恋人ポジションにいないと、反則の可能性があるのね」みたいな。バスケのルールとかと同じだね。
そういえばこないだ同僚と飲みにいった時、彼は「仲間」って表現していた。いくつになっても「飲みにいこうぜ」とか「キャンプしようぜ」とか行ったら集まれる人たちのことだそうだ。僕にとってそれは、「友だち」だね。仲間・・・仲間って言葉はそもそも僕の世界観にはなかったな。