イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「松岡正剛」さんと痕跡

僕は最近、「松岡正剛」さんという方にどっぷり浸かっているのだけれど、共通項として「定義されることを好まない」「アイデンティティがッ希薄である」という共通項があるように思う。「思う」というのは、未だそれが僕の感覚と同じかは確信が持てていないからだ。その確度を上げるために、彼の自伝を読んでいるところだけれど、読み始めて数ページで「自己同一性に対する疑念」に関する記述があって、思わずひざを打った。 たとえば彼がテクストに関して記載した文章が彼の文集、千夜千冊の中にあるが、その文章はおそらくPOPじゃない。難解な単語が多いし、感覚的な部分を多分に含んでいる。でも、僕はこの文章がものすごく読みやすい。それは僭越ながら、僕と松岡正剛さんの世界を観測するレンズ群に、共通部分が多いのだろうと思う。「テクストを綴るとは、言葉を再配分することである。」と書かれていても、僕はすんなりと受け止めることができる。 さても同文章では、「文章は痕跡であって、作者とは切り離されている」というようなことも書いてあって、この感覚は僕の文章感覚——ひいては言葉に対するモノと同じだ。今書いているこの文章も、あるいは過去に書いた文章も、ただの痕跡でしかないわけで、そこに「作者の意図」を紐付けるのは僕もあまり好きじゃない。 そもそも個人なんて存在しない。社会活動する上で便利だからラベル付けしているだけであって、僕も君もただの現象でしかなく、僕らが観測していることは全てただの痕跡だ。だから,文章に対してアイデンティティを類推するのは、例えそれが正しくても間違っていても、須く邪推であり、なんだったら無粋だ。 とはいえ、文章から物語を類推することは人間の根源的欲求——リビドーなんだとも思う。だからこそ怖いなあ、と思うのだけれど。僕に定義づけられるアイデンティティがないのは、今日降っている雨にアイデンティティがないのと同じだ。
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