ただふと思っただけのこと
舘ひろしさんが、バイクチームで喫茶店で屯(たむろ)してたらステージに誘われた、みたいなハナシだったり。ゆずやコブクロ、あるいはNON STYLEの方々が路上で唄ったり漫才してたりしたら、そのまま目を付けていただいたり。チャラン・ポ・ランタンの小春さんが10代の頃から新宿の路上でアコーディオン弾いてたら、お店で弾いてくれと頼まれたり。
なんだかそういう生き方ってのは、今もあるのかな。一方で夜の新宿で居場所のない若者がサバイバルしている、みたいなハナシを聞くと、今はそんなこともしていられないのか。「年収100万円で生きる」という本で、なんか倉庫のコンテナに住み着いて、夜な夜なバレないように外に出ている人たち、みたいなハナシがあった。
小春さんは、「アコーディオンで独りで生きたいから、路上で生活しながら弾いていようと思った」そうだ。そう聞くと、スタートはあんまり変わらない気もする。いや、一方で「生きていく」という渇望の違いはあるのかな。それにしたって、夜の街でサバイバルしている方々を、その生き方を否定するつもりはなくとも、たとえば春や承認欲求や一次快楽の売買ではない体系の中で生きる術はないのか、とも思う。
運の違いって片づけてしまうのは、「酸素があるからだよ」くらい何の意味もない。僕らは何百億年も昔に起きた奇跡から生まれているので、すべては運でしかない。運ってやつは「予定通りの偶然」であり、僕が知りたいのはその「予定」のほうだからね。
「うちで何か弾いてくれない?」「いいですよ。お金くれるんなら」これが全てだよなあ。それを仕事と呼べるなら、きっと今の夜の歌舞伎町に必要なのは環境でしかない。いや夜の歌舞伎町知らないけれど。教育が必要なのは僕らじゃないか。春を買うのではなく芸を買うということ。あるいは承認欲求を買うのではなく、感動を買うということを、教育されるべきは僕らじゃないかい。
そういう意味で春を買う方も取り締まるのはいいことだと、僕は思う。その代わりに芸や、感動や、社会的貢献を買おうじゃないの。