イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

君の世界は君だけのもの

昨晩、同僚と駅の改札で話したことが、割りと良いハナシだった。僕が最近良く書くことだけれど「僕らがやっていることなんて、全然大したことはない」というハナシ。最近の僕はよくこのハナシをする。 ただ、これは「だからやる意味がない」というハナシじゃなくて。僕らがやっていることなんて「どんくりの背比べ」であるということだ。そしてそれらは、太陽が毎日昇っては降りるとか、ベテルギウスが今日も光を届けてくれていたりだとか、渡り鳥が今年も近くの川に来たことだとか、そういうことに比べたら全然大したことじゃない、ということだ。 「この世は金だ」とか、「この世は人だ」なんて、人間が勝手に決めたことでしかない。人類史においても瞬きのような時間の話でしかない。でも僕らはちっぽけだから、それがすべてのように思えてしまうんだ。なぜなら、僕らは目に見える範囲しか世界を捉えられないからだ。夜、キレイに輝く星たちは、昼だって同じように輝いている。でも見えないから、僕らは夜になって「一番星はどれかな」と言い出す。 つまり「世界」には2種類ある。生きる環境としての世界と、僕らが認知・体験できている世界。 生きる環境としての世界は広大だ。一方で、生きている体験としての世界は、僕ら1人1人の認知——「目に見える範囲」に収束する。ベテルギウスは今も環境として存在し続けているが、僕らが認知できない昼の間は僕らの世界からカットされている。そして僕らは環境と認知世界の2つを区別できないから、認知できる範囲を「環境」だと思ってしまうのだ。でも、その2つは違う軸だ。 環境としての世界からすれば、僕らが認知できること、説明できることは、世界の端っこの、時の瞬きの中のことだ。それは、僕らの命の摩擦が、3軒先のご近所さんの人生にほとんど影響を与えず、その逆もまた然りであるように。 一方で認知としての世界においては、レストランで美味しい食事をいただけたり、気軽に飲み会に誘ったアイツが仕事終わりにちゃんと来てくれたり、ちょいとした調べ物を手伝った思い掛けない「ありがとう」をいただいたり。そういったことは、僕にとっては、あるいは君にとっては今日まで生きてきた意味を感じさせるくらいのことかもしれない。 その素晴らしさを、「環境としての世界」と比べてはいけない。いや、何と比べてもいけない。君の世界は君だけのものなのだから。
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