あやふやなものに縛られて
先日、「組織は話さないですよ」という文章を読んだ。たまたま見かけたのだけれど、なるほど良い指摘だ。組織は話さない。話すのは人だ。もっと言えば「組織」というのは概念でしかなくて、本当にあるのは人と人の集まりだ。僕がいまいち「組織」とか「チーム」とかいうモノにピンときていないところには、それらが概念でしかないからかもしれない。
たまに「良いチームだね」あるいは「XXなチームだね」なんて言われることがあるけれど、あまりピンと来ない。AさんとBさんと僕がいるだけだ。チームという感覚がない。こう、スポーツの世界に身を置いた時には、そこにはチームの定義があるからわかるけどね。実体としての組織・チームなんてものはない。良いチームなんじゃなくて、AさんやBさんが良い人たちなだけで。
僕らはよく、こうやって「組織」とか「チーム」とか、そういった実在の無い物に縛られてしまう。たとえば「良い組織」を模倣しようとして、仕組みだけ引っ張ってきてしまう、とかね。でも、実在である「人」を引っ張ってきていないから上手く回らない。そうこうしているうちに、「良い組織」という偶像が、誰にも求められていないのにみんなを縛ってしまう。
もっと言えば、他人という存在自体がそうだ。Aさんは良い人だね、って言っても、そのAさんは「いや、良い人に振る舞わなきゃ食っていけないだけだよ」って思ってるかもしれない。Aさんだって偶像。これが行き着くところは、「我思う、ゆえに我あり(コギトエルゴスム)」なわけだけど。
まぁそういった、あやふやな何かがこの世界でして、その中でも「組織」「チーム」ってのはもっとあやふやなわけでして。だって実体ないもの。だから、それを絶対的なモノにするのは、結構な縛りプレイだよなあと思うよ。まぁあやふやな世界だから、たとえ偽りでも「絶対的なもの」を信じたくなるのもわかるし、だからこそリーダーには「言い切ること」が求められるわけだけれどね。
まぁそういうあやふやなものを「在る」として雁字搦めになった状況に対して、「何が僕らを縛っているんだろう」と一つずつ見つめるのは、とっても大事だと思う。