イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

動かない責任

「スポットライト」という映画がある。もう10年くらい前に観た映画だけれど未だに覚えている。カトリック教会が秘密裏に行ってきた悪事を暴くジャーナリストの話。実話を基にした映画だ。 この映画の中で印象的な言葉がある。カトリック教会の悪事を暴くための記事を書こうとしたジャーナリストが上司に直談判をするシーン。PVにも載っている。そこで上司は、こんな教会のスクープを記事にしたら混乱になる。その責任は誰が取るんだ、と言う。そこで取材したジャーナリストの返答。 「では記事にしない場合の責任は?」 まぁ僕は責任云々のハナシは得意じゃないけれど、たとえば何かをしようとするとき、その影響について僕らはつい考えてしまう。僕が東京から長野に引っ越した時も、「それで生きていけるのか」「仕事はやっていけるか」等々を考えた。でも、一方で、そこには同じだけ「引っ越さない場合は?」という可能性も存在する。 人ってやつは、いや生き物ってやつは「現状維持」を好むから、変化を起こそうとすると「なんでそんなことすんねん」というハナシばかりが僕らの頭をよぎる。そこには同じ重さだけ「なんでやらんの?」というハナシもあるはずなのだが、そっちは「まぁええがな」「今日まで生きられてるがな」とスルーされてしまうわけだ。 先の「記事にしない場合の責任は?」はそれを痛烈に指摘する。行動しないこと、現状維持を選ぶことにだって責任は伴うだろう、と。実際、ちゃんと見つめてみると「行動しないこと」のほうが責任重大なことだってありえるわけだ。 映画「カイジ」の中でも「迷いは望みだろ」といった言葉が出てくる。迷うってことは、「行動する」「行動しない」どっちにも望みが見えているわけで。まぁ逆に行動することを下手に英雄視することもないけれど、まぁ「やらない選択」も立派な選択だよなあ、と。 それこそ僕が長野に引っ越したのはむしろそっちのほうが自然で「なんで東京に居続けるの?」ってほうが不自然だったからでね。
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