イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

たった6%

今年に入って、自分を現象だと捉えることが増えた。それはまぁ色々なことがあったからだけれど、元々「アイデンティティ」という感覚が希薄なのもあるだろう。「何者にもなりたくはない」とは繰り返し言ってきた。それは仕事でもそうだし、生きていてもそうだ。 ある種の他者に対しても、それに近い感覚がある。つまり、僕だけじゃなくて「アイツ」だって現象であってアイデンティティはない。たまたま、「アイツ」って現象が現れているだけで、それはそいつのアイデンティティなんかじゃないという感覚。 たとえば仕事でも友だちでもいいけれどさ。特に僕のようなデスクワーカーからすると、仕事仲間と接する機会なんで、多くても1週間に10時間もない。しかもそれは仕事中の一面でしかないよな。残りの158時間は知らないわけだ。たった6%しか見ていないのに、そこにアイデンティティを見出す、ってのも変なハナシじゃないか。 それこそ僕だってそうだ。ゲームしながら暴言を吐いている姿なんて仕事では見せないわけだし、旧友と話しているときに出る、丁々発止の関西弁のやりとりなんて、仕事では全く見せていない。挙げ句に「イオリンさんって関西弁しゃべるんですか?」なんて言われる始末。 だからまぁ、何が言いたいわけではないけれど、あんまりアイデンティティと結びつけるのはよくないよな。でも一方で、人間には単純化して捉えたいというバイアスがあるから、油断するとすぐに「あの人はこうだ」とか、逆に「あの人は私のことを嫌いなんだ」みたいな単純化をしてしまう。おまけに人はマイナスに考えがちだから、大抵は面倒なネガティブを巻き起こしてしまう。 難しいのが、「あの人は仕事においてはこうだ」はある種正しいんだな。問題は「だからきっとあの人はこういうアイデンティティを持つんだ」と結びつけないこと。アイデンティティなんてないんだから。僕や君が見ている相手はたった6%でしかないのだから。
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