陽炎のようなことば
僕にはいくらか気をつけている言葉がある。そのうちの一つが、「本心」ってやつだ。これは、いかにも存在しそうだが、その実存在しないような言葉だからだ。陽炎のような、あるいは虹のような現象であり、見え方でしかない。近づけば近づくほど、むしろわからなくなって、消えてしまう。それが「本心」ってやつだ。
先日、友人夫妻のホームパーティに行って、僕はその家に泊まらせていただいた。翌朝、家を発つ時に、奥さんがそのパーティの食材の余り物からお弁当を作っていただいた。僕はとっても嬉しくて、喜んでそれを持ち帰らせていただいた。
さてもここに「本心」ってやつを持ち込むのは、僕は無粋だし、危険だなと思うのだ。弁当を作ってくれた。僕がそれを喜んで拝領した。それだけが全てだ。本心ってのは、そこには存在しない。それほど人は器用じゃないと思うし。食材を包丁で切っているその最中には、「食材を切る」以外のことは考えていないでしょう、きっと。
それに、「本心」って言葉は、つまりそこに「建前」という対義語がついてくる。本心について考えるということは、建前ということについて考えるということだ。僕は、自分自身、本音と建前について考えないし、時系列の違いを本音と建前だとしちゃっているだけなんじゃないかな、とも思う。昨日はこう思っていたけど今日はこう思っていただとか、そういう違いを「本音」と「建前」という言葉は見えなくしてしまう。
本心も何も、そもそも心ってやつも陽炎みたいなものだしね。