不確かなモノには不確かな言葉を
物事には流れがあり、そこには透明度というハナシもあれば波長というハナシもある。「流れが来ている」という言い方もある。
そういったものは、科学というモノの中では一旦は否定される。不確かな表現、不確実なモノ。データレスなハナシだからだ。確かにその通りだと思う。こういった表現、言葉は一定の範囲においては市民権を失ってしまう。
だけれども、科学、データ、数字、事実、理論といった世界を通ると、その先にはどうしても「流れ」といった言葉でないと切り出せない世界がある。そういう世界に足を踏み入れると、途端に先ほど市民権を失った言葉たちが輝き出すのだ。
そこに壁を作るつもりはないけれど、その2つを「理」と「文」に分けるならば、理の傑人は存外、文に精通しているし、文の傑人は存外、理をおもしろがっている。奇妙に混ざり合っている。チャールズ・フォスターさんは獣医学の博士号を持ちながら「動物になって生きてみた」みたいな作品・体験を書いている。松岡正剛さんは文豪でありながらも、その発言の中に量子力学のハナシとかが当然のように出てくる。
文と理の2つを分けたのも所詮は人間であり、世界はまぜこぜだ。科学、データ、数字・・・それらも実のところ言い得ている部分というのは限られていて、まぁそれは文の方も同じなのだけれど、文のほうは「あやふやなままで置いておける」わけだね。「流れ」ってのは不確かなものだからこそ、不確かなものを言い当てることができるわけだね。
存外、「僕」や「あなた」ということすらも実は不確かなほうだよね。