イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

それぞれが、それぞれ

YouTubeで精神科医の名越康文さんが「事実を思っているモノは、実は思想かもしれない」というテーマで話されていた。実に興味深いテーマだなあと思って聞かせていただいた。 簡単に言えば、僕らが事実や歴史だと思っている情報は、実は僕らの思想によって偏りがちであるということだ。 たとえば「日本ってオワコンだよね」と信じたい人は、客観的な事実を集めているように見えて、「オワコン」だと示す情報ばかりを取り上げ、「オワコンじゃないよね」というような情報は軽視してしまう。それも無意識に。そういって集められた情報は、もはや事実ではなく思想だ。 情報の集め方、その取り上げ方に思想が乗ってしまえば、それは結局、事実とは言いがたい。事実のうちの、ある一面だけを見ているに過ぎず、その側面の見え方に思想が乗っているならば、それは事実ではなくて思想になる。 ただ、まぁ名越さんも仰っておられたけれど、こういう部分を上手くやりくりしている方というのは少ない。彼の言を借りれば「ただの一ページとして扱う」という風に事実を取り扱う、というのは、どうやら簡単ではないようで。 そもそも人間の特性として、「物事を単純化する」というのがあるし、なかなかに世界の多面性、あるいは多世界性といったものを「そういうもんだよね」と切り離すのは難しいのだと思う。 僕が多くの人たちに「もっと大自然に触れた世界にいったほうがいいよ」と思うのは、大自然とは常に多世界であるからだ。それぞれがそれぞれで、すべてであるということ。それがコンクリート世界だと、どうしても画一的に見えてしまうのだ。 まぁ実際は東京も、あのマンションの光の一つ一つにそれぞれの人間のそれぞれの世界があるのだけれど。それが見えづらいんだなあ。
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