行ったり来たりの間にあるもの
今朝方あたりにTwitterで見かけた、知性だかなんだかに関する会話でね。まるまるは覚えていないから僕の編集が入った言い方になるんだけれどね。
ある方が「知性が高くなると孤独になりやすくなる。なぜなら、人と会ってもすぐに"あぁ、この人はこう考えるのか"といったパターンに当てはめることができてしまい、人に対して入り込まなくなるからだ」と言っていて。
そこに対する返しで別の方がね。「それは知性じゃなくて目線・視座が高くなってしまっているだけだ。俯瞰するとそりゃパターンに見えてくる。人と関わるなら降りる必要がある。降りることで深く入ることができ、深く入れば人なんて無限だ」みたいなことを言っていてね。ははあ、そうだよなあ、と思った。
これはまぁマクロとミクロみたいなことで、ミクロを知りたいならミクロに行きなさいと。まぁそんなことかなと思うんだけれどね。ミクロに対してマクロに捉えちゃう、ってのは、まぁ置きがちなんだろうね。
「木を見て森を見ず」みたいな言葉もあるけどさ。逆もあるわけだ。森を見て木を見ず、ってことが。
で、ここがまたミソなんだけれど、「知性」っていう単語が出てくるあたりにも示唆があって、つまりミクロに対してマクロで捉えると、ちょっと賢くいれるんだよな。マクロのほうがカバー範囲が広いからだろうね。木曾山の高原にある一本木を知っています、っていうよりも、木曾山の森を知っています、って言うほうが広いじゃない。でも量で言えばどっこいどっこいなのさ。
こないだ書いた有限と無限のハナシに近いけれど、実際はミクロとマクロを行ったり来たりすることが肝要だし、醍醐味なんだと思う。なんでもそうだね。都会と田舎と。山と海と。男と女と。デジタルとアナログと。文系と理系と。行ったり来たり。そうすると、間にある無限に、あるいは三つめに気付いたりする。