イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

間があるから

最近の僕の注目はもっぱら「合間」というか、「行ったり来り」というか、そういう、間にあるところだ。余白ではなくって、合間。この「間(ま)」というのは英語圏には存在しない概念なんだそうだ。 僕の休日はおおよそ、そういうことを考えるのに半分くらいを費やしているのだけれど、そうしているとおおよそ、どんどん社会との距離感というか、ギャップは広がるばかりだ。社会は間を詰めよう、詰めようとしてくるからね。間があったらそこで何ができる?と責め立ててくる。「間がある」ということは、すでに満たされているということなんだけれどね。 僕はお仕事においては、余計なモノをガシガシを削っていきたがる人間だ。リモートワーカーだし、マネジメントもミーティングもなるだけ省きたい。そんな人間だけれど、そうやって要らないモノをポイポイと捨ててできた「間」は、そのままにしておきたいよな。 たとえば何かを決める会議があるなら、それは何かを決めればいいだけだから余計な会話はいらないと思っている。でも、「間」としての会議というか、会話ならば、そこにはもう、味わいたっぷりでなんでも話していいと思っているのさ。それは僕にとってはダブルスタンダードじゃなくて、別のことでさ。 こういうハナシをすると、後者は「仕事じゃありません」みたいな切り方するでしょう。そういう「間」が、仕事を潤してくれるんだけれどね。それを変に切ってしまうから、「決めるための会議」で変に潤そうとしちゃうでしょう。なんだか、あべこべだよなあ。
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