一方通行であり、それがすべて
人間関係というものは、基本的には一方通行だと思っている。それは別に片思いだ両思いだとかそういったハナシじゃなくて、「他者の心の中は知ることができない」という原理的なハナシでね。たとえ両思いだったとしても、その確証をとることはできないので、原理的に一方通行だ。
だからこそ、僕は本音と建前だとか、本心だとか、そういう言葉はあまり好きじゃない。それらは存在しないのに、存在しているような素振りで幅を利かせている。「わかりあう」とかもそうだ。そもそも「わかる」とは「分かる」あるいは「解る」であるからして、むしろ袂を分かつ・線を引く方向の言葉なんだけれど、なんだか「わかりあう」ってやつが、以心伝心と同じような場所に立っている。
そんなものは存在しなくって、勘違いか後付けでしかない。逆に言えば、勘違いであっても価値があるということだ。「両思いだと勘違いした」というだけで、それは素敵なことでしょう。それ以上に確証を取ろうとしないこと。確証を取れたと思わないことだ。勘違いを間違いにしてはいけない。
たとえば僕はAさんやBさんを友だちだと思っているのだけれど、それをAさんやBさんは確かめることができないし、確かめる必要はない。ただ、「友だちになりましょう」って言ったり、あるいは「ちょっと飲みに行こうよ」って言ったり、あるいは誘ったら「行く行くーー」って返したり、そこがすべてで。
「イヤイヤだったのかなぁ」って考えるのが無粋なように、「彼は僕のことを友だちだと思っているんだ」と考えるのも無粋だと思う。一緒に遊んだ、一緒に飲んだ、来てくれた。そこですべてなんだから。その上で「僕は彼・彼女を友だちだと思う」っていうのがすべてなんだから。