イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

LLMと「熟す」ということ

新しい、完全に私用のMacBook Airを最近買ったので、仕事では使えないようなツールをいろいろ入れては楽しんでいる。 主にAIまわりだろうか。どうにも企業活動となると、AIには慎重になるけれど、僕個人のPCとなればやりたい放題だ。僕は自分自身のデータについては「どうぞお好きに使いくださいな」という立場だ。昔からパソコンが「あなたのデータをサービス改善に使わせてくれますか?」といったダイアログには、どうぞどうぞ使うがいいさ、と快諾していた。 まぁ悪用や濫用は困るんだけれどね。僕はアイデンティティが希薄だから、そのデータについて自分を同一化していないのだと思う。僕がPC上に打ったデータなんて、僕じゃないんだから、好きにしてもらって構わない。 一方で、生データではない著作物やアイデア・デザインと呼ぶべきものについては、ちょっと過敏かもしれない。たとえば僕は絵描きさんじゃないけれど、絵描きさんが自分の絵を勝手に学習データに使われた、なんてことがあったら、そりゃあやんなっちゃうよな。僕だってそれはいやだね。 まぁ2026年現在は、そういったアイデア・デザイン・意匠といったものはLLMには扱えていないのだけれどね。たとえばジブリっぽい絵は作れても、ジブリの魂は創れないようにね。それは文章もそうだし、プロダクトもそうだ。 一方で「熟考」「熟読」といった、「熟す」という概念が薄まった近代においては、そういった「魂」の部分を感知できる作り手・担い手というのも減っていそうだから、溝は深まるばかりかもしれないなあ。浅慮はLLMがやっちゃうんだから、それこそ人間は熟さないとならんのじゃないかな、と思うけれどね。
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