自分型と世界型
友人が「自分は大学生の頃に無個性であることに悩んでいた」「それを打破できてからだいぶ楽になった」と言っていた。僕とは真逆だなと答えた。僕は昔からずっと、自分は無個性であると思っているのに目立ってしまう、際立ってしまうことに悩んでいた。
僕が「目立ちたくないんだ」というとほとんどの人は「ウソをつけ」と笑う。そんな目立つナリをしていて、目立ちたくはないだろう、と。そう言われるたびに疑問符が僕の心に残る。
たまに「そんなに人は自分のことを見てないから気にするなよ」という助言があるけれど、僕からすると「なんだ、存外君らは僕なんかのナリや振る舞いを気にするのか」と驚くことのほうが多い。さすがに齢三十を超えてそれに振り回されるほど青くはなくとも。「そんな世界観の方もいるんだなあ」と思う。
生き方の軸に「自分型」と「世界型」がある。世界の動きやあり方に対するリアクションを生き方の軸に置く人と、そもそも自分がどう在りたいか、を生き方の軸に置く人。
「世界型」は、たとえばこの学校の中で、コミュニティの中で、社会の中で、どう振る舞うか。こういうベースだと「大衆と似たように振る舞う」というものがあるから、無個性・有個性という見え方が生まれる。
一方で僕は自分型だ。もちろん世界という舞台はあるけれど、どの環境であれ「どう在りたいか」が軸にある。だから無個性という概念がないし、大衆に指さされても「ヘンなのは社会の方かもしれんぞ」とずっと思っている。
実際はそんな反骨するわけでもないけれども。「どっちもいいな」であり「剣呑なら離れたいな」というくらいだ。社会に受け入れられたい、という気持ちも世界型ならではだよな、きっと。僕にはないもの。