イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

諦めるにははやすぎる

僕は、お仕事とか、日常とか、そういうものはもっと「いいかんじ」のモノであれるんじゃないかなあと思う。昔から死中に活を見いだすような生き方はそもそも好きじゃなかった。平日はつらくても働いて、土日で発散させる、ってのも不健全だと思ったし、今でもそうだなと思っている。 でも、なんだかそういうのは夢物語や青臭さとして片づけられてしまう。無理なものだ、と社会では捨て置かれてしまう。本当にそうなのか。 少し前に「組織は話さない」というハナシを書いた。似たハナシは社会にも言える。つまり社会は話さない。そこに話している人がいるのだ。社会が難しかったり厳しかったりツラかったりするんじゃなくて、人が難しくしたり、厳しくしたり、ツラくしたりしているんだ。 だからお仕事や日常が楽しくないなら、それは人がそうしているし、言い換えれば未熟さ、至らなさでそうなっているはずだ。もちろん要所各所でツラいことはあるだろうけど、総体的にはワクワクするものにできるはずなんだ。絶対。 少なくとも内紛もなく災害もそこそこに対応でき、水や食料に困ることがない、この国におけるほとんどの人にとってソレは成せるはずだし、なんだったら広める側に立ってもいいくらいに僕らは豊かじゃないか。それなのにマッチポンプで苦しんでいる素振りなんて、そもそもが間違っている。絶対。 だって太陽はほら、今日もこんなにも暖かい。社会だなんだと言ってあきらめるには、はやすぎるんじゃないか。なあ。一人ひとりができることは少なくとも、社会だって結局そういう一人ひとりの集まりだろうに。 僕が自分でそういう場を作りたくなるのは、「そんなの絶対間違ってる」と言い切れるからだ。
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