学んで遊ぶ
お仕事について誰かと話すとき、どうにも根本の軸のようなものがズレているなあと感じることが大いにある。そもそも「お仕事」とは何なのか。それを考えるときの理想像とか憧れにどんなモノを置いているのか。それ自体がズレている。山へ行く準備のハナシをしているのに、海のハナシをされるようなものだ。
さても、最近は日本文化と海外文化について調べたり読んだりする。体系的に読んでみると、なるほど日本とは興味深い成り立ちをしているものだ。中国大陸の文化を取り入れながらも席巻されない。文字を持たなかった文明が、漢字を教えられたのに、なぜか「音読み訓読み」を見出し、「かな」を見出して日本語にアレンジしてしまった。英語も同様だ。book-keepingを「簿記」、galleryを「画廊」にしてしまう大胆さ。
そういう大胆さは、おおよそ近代まで受け継がれたように思う。グローバルなポップカルチャーをJ-POPにしてしまう。ある意味では島国らしい大胆さだ。国境が繋がっていないがゆえに、勝手にアレンジして閉じこもることができてしまう。グラデーションが起きないのだ。
ただ、そういう特異性はおおよそ変化しつつあるような気もするし、生成AIの席巻によっても摩滅する部分だと思う。生成AIはどこまでいってもマスに寄るからね。近代SNSもそうだね。「事実か」とか「伝えるべきか」といった目線ではなく、「人気か」という点で出す情報を変えるのだからね。「耳ざわりの良いウソ」が、「つまらない真実」に勝ってしまう。
休暇中に考えていることのひとつであり、読み漁っていることのひとつだ。僕は学ぶのが好きなんだな。それも遊びだ。