メソッドと刮目
どうにも僕は自分というものを「誰か」に対して表現することを怖がっているというか、避けているようだなと思う。こうやって文章を書いて世界のどこかにそっと「置く」ことは好きだし生活の一部と言ってもいい。でも、同じようなことを明確な対象に対してやるのは苦手だ。
本心を隠しているというわけでも仮面を被っているわけでもなく、別人なのだろうと思う。多くにおいては僕は会話を「セッション」として楽しんでいて、思考の表現や相互理解みたいな楽しみ方をしていない。掛け合いリズム感や言葉のテンポ、語感、そこからくるグルーヴを楽しんでいる。カラオケだ。
で、一度それを楽しみ出すと、「考えの表現」という人格を持ち出すのが難しい。メソッド演技に近しい何かかもしれない。「レディ・・・アクション」って言われてから数瞬、その人格に入れ替えるような。それはとても意識的に気合いを入れなきゃいけない。
僕は「本心」という言葉をあまり信じていないのだけれど、それはみんなきっと同じように「場に応じて人格を変えている」からじゃないかな、と思う。子どもを叱っていた母親が電話に出るときにご機嫌になるように。仕事で厳しい上司が娘さんに甘々になっちゃうように。それはどちらも本心だ。
一つに定義した正解やラベルを求めるのは近代人の悪い癖のようにも思う。人は多面的であることを各々が一番知っているのに、「あの人はXだから」という言説が後を絶たないうえ、そのXはどんどん単調になっている。「三日会わざれば刮目して見よ」と言うが、その日その日、その場その場において、ちゃんと刮目して見なきゃあ、ね。