イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

最先端と腐敗

ここ5年くらいで、僕は「最先端」という言葉を使わなくなった。それは別に進化は多様であるというわけではなくて、「最先端」は必ずしも良いモノではないな、と知ったからだ。いや、むしろ引っ込みがつかなくなっただけで悪化の一途をたどっていたり、実は円環になっていて「え、それ100年前のほうが良いモノじゃない?」みたいなことが多い気がする。 まぁ僕から見て円環(ループ)に見えるモノが他の人からするとそうじゃなかったり、その逆だったり、あるいはループをただ走ること自体が楽しかったりするわけだから、まぁ是非は問わず、単に僕からして近代の「最先端」というラベルにはあまり魅力を感じなくなった、というだけのハナシだ。 おおよそ、技術的な「最先端」とは別の「肥やし」となる部分があるのだと思う。生成AIの台頭で、あるいはもっと昔から人の生産速度というモノは何度も爆発的加速をしてきたにも関わらず、未だに僕らの生活はあんまり便利になっていない。 それはやっぱり、肥やしの部分がちゃんと醸成されていないからだろうなと思う。「目が肥える」という言い方をするけれど、自分の作ったモノを自分で見ることができていない。ただ「ろくろ」を手に入れただけで優れた茶器が作れるわけではないように、コンピュータや生成AIや資格を得ただけで、良いモノが作れるわけではない。 ノブレス・オブリージュじゃないけれど、技術的最先端にはそれ相応の矜恃が求められる。「生成AIで作った企画書をそのまま投げる」なんてのは、豪奢なドレスに身を包んでおきながらガニ股歩きをしているようなモノだ。宮廷貴族が劇場に通うのは、その教養が武器になるからだ。それを勘違いすると腐敗が始まる。「最先端」も同じで、ただ技術を享受するだけだから腐敗する。 ただ、まぁグローバリズム市場においては、「そんなのを待っていたら市場を奪われる」みたいなことが起きかねないので、これも是非はないハナシだけれど。
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