イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

戯れて

僕の住む町からは、日本アルプスがよく見える。 僕はきっと35年以上生きてきた今でも、人間社会において腹落ちして生きる術を見つけられていないのだろうなあ、と思う。別にこれは悲観的になっているわけではなく。 本当は、あの山々に住む生き物のように、僕も毎日を享受したいのだけれど、どうにも「人間」というだけでそれをすることがとても難しくなってしまう。いや、人間だけじゃなくって、動植物もそうで、必死に生きているのに、ある日突然、人間に追い掛け回されて殺処分されたり、除草剤を撒かれたりするわけだから、僕だけがどうこう云うハナシでもないのだけれど。 思えばこんなところに来てしまったな、と思うことはある。なまじっか社会で生きてこれたし、なんだかんだもがいてきた自負もあって、社会における一角のナニカにはなれたのかもしれない。でも、ずっと迷子になっているというか、歩きながらもずっと後ろを振り返ったりキョロキョロしたりしてしまう。 こういうとき、実写映画版ちはやふるの劇中に出た「かるたが一番楽しい時は、いつやった?」という言葉を思い出す。それはやっぱり「これって、おもろいやろ」というのを、ただそれだけで追い求められた時だろうな。やるべき、とかじゃなくって。「おもろいやろ」「おもろいやん」だけでやる。 今年に入って「博覧強記」というものに憧れてきたけれど、僕は知を、使命感にも義務感にも使いたいわけじゃない。そうなると、知は理論武装のための道具になる。そうじゃなくて「おもろいやろ」を得るための肥やしにしたい。トンビとカラスが戯れるように、僕も戯れていたい。
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