イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

わかりあえない、と言う希望

僕は最近、よく「文化が違うんだね」という言葉を使う。僕はこれを「だから別々にやろうね」という文脈で使うのだけれど、そうするとなんだか悲観的なムードが流れてしまい、僕はおおよそ「これは悲しいことじゃないんだよ」と訂正する。 文化が違う、っていうのは「理解の諦め」に聞こえるから、相互理解が持て囃される昨今では悲観的に聞こえるのかもしれない。けれども、そもそも文化の違いってのは、その人の人生だけではなく環境や歴史もあわさったハナシで、理解することのほうが難しい。 たとえば僕は日本人で、さらに奈良県出身で、否応無しに歴史とは縁が深い。「木造建築」と言われて僕が思い浮かべるのは荘厳な法隆寺や東大寺だ。一方、都会に暮らしている人にとって「木造建築」とは下町の古びた長屋かもしれない。海外の人にとってはロッジやフェアバンクス邸のような西洋的木造ハウスかもしれない。 こんな違いがあらゆる要素であるはずなのだ。「ヒト」であるからといって、同じところに一緒くたにして一様の何かができるように、つい勘違いしてしまう。「話せばわかる」ならば戦争なんてやめさせられるはずだ。でも僕らには「話したところでわかりゃしない」というものがあって。そこの上に立つことは悲しいことじゃなくて、むしろ希望に近い。 つまり僕らは、肩を組んで二人三脚する以外の「対岸にいながら交流して生きる」という方法があるはずで、それは「わかりあえるはずだ」と思っているとたどり着けない希望だ。その希望をつかむために、僕は「文化が違う」という結果を受け入れるんだ。 もちろん、「話さなきゃわからない」も同様にあるから、話すことを放棄してはいけないのだけれど。でも、「分かり合えないかもしれない」と思いながら話すことは好奇心の証左だし、その結果わかりあえないことは希望だ。
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