イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「務め」は慈善事業じゃない

最近はとかく「稼ぎ」と「務め」だ、と言っているのだけれど。ちょっと歪みが生まれそうだなあと思うことがあってね。それは、お金が絡むことすべてが稼ぎ、というわけじゃないよってこと。「売る」「商いをする」というのは、実のところ務めのほうに近いということ。 たとえば宿場町においてお土産を売ったり、旅のお供になる杖や靴を売ったり、っていうのは、これは務めでしょう。その務めを維持するためにお金や対価をいただいているわけで、その根っこは「お互いに求めているモノを交換する」という務めがある。商いとは務めだよね。 一方で「稼ぎ」というのは、暮らせていること、その糧になるものを得ることだ。現代においてはそれがお金だし、少し前は米だったり金だったり絹だったり稲だったりしたわけだ。わかりやすいハナシ、「自分で稲を作って食べる暮らし」なら、稲作は稼ぎだけど務めじゃない。ただ、一方で稲を作って村に配るなら、稲作は務めにもなる。 つまるところ、稼ぎと務めは二項対立の関係になくて、重なり合っている。それらをある角度から見たら「稼ぎ」になり、ある角度から見たら「務め」になる。そういった関係だから「務め」を考える時にお金を切り離しすぎると、ちょっと歪んでしまう。 そうではなく、商いをするにしても務めを忘れちゃいけないよ、というハナシだ。務めを忘れた商いとは、たとえば宿場町で独占市場を作るために競合の宿場を焼き打ちしたり、談合して値段をふっかけたり、あえてボロい杖や靴を売ったりといった行為だ。そのほうが短期的には稼げるが、務めは薄まる。 そして務めを忘れてしまえば、長期的には潰れる。評判や治安が悪くなって客足が遠のいちゃう、とかね。だから、「務め」は慈善事業じゃなく、商いにおける勝ちの方程式だ。 それがまあ忘れ去られるのは、インスタントな時代性もあるのかもね。
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