イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「なんとなく」は魂の煮こごり

作家・本谷有希子さんが、「ツライからツライんだ、って言えない社会は、キツイよ」みたいなことを言っていた。 たとえば、日々、一生懸命働いて残業があってツライ、みたいな人に対して「でも今日のご飯も食べられない人がいるんだよ。日本にいる時点でそんなの本当のツラさじゃないよ」みたいな、そういう言論をすると、ツラさの証明が必要になってくる。でもツラい時って、アタシがツライと感じるからツライんだ、みたいなことがあって、それが言えなくなるのは、厳しいよね、と。 現代は言葉を過信していて、そういう証明・正論みたいなものを使うと、打ち負けたほうは無かったことになってしまう。うまく説明できないと、存在しないことにされてしまう。でも、そうじゃないよな。説明できなくても存在することって、いっぱいある。理由があるから実存があるわけじゃない。 たとえば「生きる」ってことさえもそうで。生きることの目的なんて本来なくて、「生きたいから生きる」でしかない。お金を稼ぐとか、自己実現するとか、世界を良くするとかは、生きるための理由ではなく、むしろ【生きる】の一部だ。つまり【生きる】のほうが目的であって、同時に理由なわけだ。 言い換えればそれは「なんとなく」なんだけれど、「なんとなく」は空虚ではなく、むしろ魂の凝縮、煮こごりみたいなもんだよな。
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