「リアル」かどうか
今、宇宙船が月と地球の間をおおよそ秒速1km〜2kmで移動している。今日も地球のどこかでは戦争をしていて、今日も少年兵は戦地にいて、金持ちはタワマンで優雅に余生を過ごしていて、どこかで性被害に遭う女性がいて、鉱山で毒に侵されながら鉱石を掘り続ている男性がいて、映画監督は映画を作っていて、漁師は海で過ごし、山小屋では春の支度をして、ギタリストは吉祥寺でギターを弾いているだろう。
さて、翻って僕は朝に起きて、雨降っているなあ、やだなあ、なんて思いながら支度をして家を出る。雲が山にかかる様を眺めながら今日は何をしようかと考えて、カフェに着いて、コーヒーを飲みながらこの文章を書いている。
どちらもきっと現実で、だけれどもこの2つには、少なくとも僕にとっては残酷なほどに乖離がある。自分ごとじゃない、と書くと薄情に見えるだろうけど、体験できないリアルはリアルじゃない。逆に音楽やゲーム、小説、映画はフィクションだけれど体験できるという意味でリアルだ。追体験も立派な体験だ。
きっと僕らが「夢のハナシ」をしゃべりたがるのは、夢は当人にとって限りなくリアルだからだろう。それは話し手にとっては「先週にあった面白いエピソードトーク」と同等なんだ。逆に言えば僕らは離れた土地にいる親兄弟のハナシを滅多にしない。
そして、AIは体験できない。それゆえに彼らにはこの「リアル」が認識できない。それは欠点ではなくて個性・特性で、だからこそAIはリアルかどうかに左右されず物事を引っ張ってこれるのかもしれない。
まあつまるところ、「あの人はわかってくれない」はおおよそ、体験していないがゆえのリアルの欠如だよな。