イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

情報過多の正体を考える

情報過多と叫ばれる昨今だけれど、情報とはいつから過多だったのだろう。そもそも情報とは。そういうことを考えずに情報過多な時代だ、というのも変なハナシだ。 僕が気に入っている「情報」の定義は「違いを生む違い」だ。今朝の空模様が怪しくて、僕は傘を手に家を出た。これは僕の行動に違いを生んだがゆえに「空模様」は立派な情報だ。声色、喉の調子で風邪気味かどうかわかるし、寝不足であるということも何かを示唆していて僕の行動を変える立派な情報だ。 とすれば、僕らの世界はもともと情報にあふれている。お手洗いの時にスマホを見るのは情報過多の象徴に思うけれど、スマホがない時代には地図帳とかがあっただろうし、そうでなくとも腸の鳴動などを感じることだって立派な情報だ。もともと情報であふれている。 だから「情報過多」の正体は過多なのではなく、質の変化、あるいは流入の変化なのだと思う。 おそらく情報の分断が多いんじゃないかな。繋がりのない情報が節操なく手に入るようになったから、コンテクストが結びつかないし、前後との比較もできないから予測するしかない。それぞれのパーツにおいて物語を類推するしかなくて、それがゆえに脳内で情報が膨れ上がる。 これが情報過多の一つの正体であり、なれば防ぐには仕入れる情報、処理する情報に繋がり、ストーリーを持たせる。あるいはストーリーのある情報のみを仕入れる、あたりかな。 たとえばTwitterのAI、Grokが成長することで各ユーザのコンテクストにちゃんと対応したモノを提供することができれば、それは情報過多の防止に繋がる気はする。決して同調する意見だけではなく。 あとは、コンテクストや解釈なんて介在しない情報を仕入れるようにする、とかかな。ただの数字や、ただの法則。
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