イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

存在しない言葉に縛られる

たまに「社会」というものは恐ろしいものだな、と思う。それは「存在しないもの」あるいは「人間が作り出したもの」を、世界の真理かのように幻想を抱かせるところがあるからだ。 僕は自分の人生において、「誰かの気持ち」というものは、ただの情報としてしか取り扱っていないし、「責任」なんてものは存在しないと思っている。唯一、自分がやったことに対して自分で結果に納得して、ケツを拭くこと。それだけだ。その覚悟を責任と呼ぶのであって、それ以外には存在しない。 でも、社会に生きていると「責任が取れない」みたいな言葉が当たり前のように出てくる。あるいは、「どう責任取ってくれるんだ」とか。基本的には「知らんがな」でいいと僕は思ってる。 こういうのはまあ「責任」だけじゃなくて色々ある。「絆」「家族」「仲間」とかも、実態とは全然違う膨らみ方をしてしまう。それが人生を楽しくさせるならいいんだけれど、逆に縛ってしまうことも大いにあって、恐ろしいものだ。「俺は家族を養わなきゃいけないんだ」みたいな。でも直接聞いたら「言ってくれたらアタシが働いてアンタはヒモでもいいのに」みたいなことは往々にある。 なんかそういうもので溢れて、気づけば自分たちで動けなくなっている。そして「俺らが我慢しているんだから、お前らも我慢しないと不公平だ」というふうに、自分たちの行動をどんどん縛っていく。 たとえば日々だらしなく生きても良いじゃない。それで自分が納得できるなら。最悪それによって食っていけなくなったり生活保護受給者になってしまってさえ納得できるなら、ね。
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