イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

合理の前提が違う

僕は、自分では「合理」だと思ったことを選んでいるつもりだ。だからその結果が「変人」だとして扱われることは、慣れはしたけれど意外ではある。まあおそらく、合理の根っことなっている前提が違うのだろう、と思う。 たとえば長野に来ていると、「長野みたいなとこに住めていいねえ」と羨んでいただくことがあるのだけれど、まあお仕事とかがあるにせよ、同じようなリモートワーカーでさえ似たようなことを言う。でも、僕からすると「やりたいし、できるのなら、やればいい」というだけなのだけれど・・・と思う。 以前、ある漫画に出てくるキャラクターのセリフに対して、「これ、イオリンが言いそうやな、って思った」と言われたことがある。人間の最高峰みたいなキャラクターなのだけれど、周りから「化け物」と言われるのに対して吐いた、「訓練もせず、修復可能な欠点を直そうともせず」「俺からしたらお前らの方が人間じゃない」なんてセリフ。 僕は超人でもなんでもないし毎日もがいて、なんとか生きている。それに日々、怠惰を享受もしている。だからそのキャラクターとは結びつかないのだけれど、でも言わんとすることはわからなくはない。少なくとも未熟で過激だった20代前半くらいまでのイオリンなら、こんくらい思っていてもおかしくない。 根っこにあるのは「できる」か「できない」かの前提なのかな。さらに底にあるのは好奇心だろうか。飽き性だろうか。どうだろう。決定的に変わったのは、これまた漫画で申し訳ないが、中学生の頃に意図せず出合ったこのセリフだろうな。「生まれてしまったから仕方なくただ生きる・・・そんな生き方、オレには耐えられない」その衝撃は風景とともに明確に覚えているもの。川の向こうの「BOOK MARKET」なる古本屋。塾に行く前の時間。
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