宇宙世界と僕の世界
ふと目を閉じると、意識が宇宙まで飛んでいくことがある。何を言っているんだと思われるかもしれないが、部屋に入る日光や空気などから地球を感じ、太陽を感じ、そしてその太陽でさえも宇宙の中のほんの一粒でしかないことを感じる。それらを頭の中で仮想体験する。
人間が紡いできた科学のおかげで、僕らはそれを知っている。宇宙や銀河の様子も写真で、あるいはファンタジーが描く映像で知っている。それらを脳が編み込んで、こんな地球のなんでもない部屋の一室に住んでいる僕なんかが、途方も無い宇宙に意識を飛ばすことができるのだ。
そうすると、僕らの世界や歴史のなんとちっぽけなことか。ほんの瞬き。「たまたま」の中を生きているに過ぎない。人間の科学技術は素敵だが、それらが世界そのものであるはずがない。AIだの何だのも、ほんの瞬きであり、ただの戯れだ。
一方で、宇宙の果てから自身に意識を戻すと、世界とは僕が体験しているモノ。まさにそれでしかない。世界の果てで宇宙人が戦争していようと、僕が観測できなければそれは僕の世界にとって、ただの戯れなのだ。それよりも台風がきていることとか、口内炎が痛いことのほうが、ずっと「世界」だ。
この2つを僕は行ったり来たりする。気をつけなきゃいけないのは、両方に足を同時につっこまないことだ。そうすると「どっちも大事」だの「どっちも戯れ」だのと中途半端なことになる。執着もせず、中途半端にもならない。その勘所が、まあ中庸ってやつなんだろうな。