イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

言語というツールと都合の良い解釈

おんなじ人間という種族ではあっても、同じことを感じられるかどうかってのは、確かめようもなければそこまで確実性もない。僕らは「言語」に思考を縛られているけれど、その実、言語ってやつもあやふやなもんだからだ。 僕は本音と建前ってやつがない。それを言うべきか言わないべきか、という区別はあるけれど、すべて本音だしすべて建前だ。そもそも言語ってやつ自体が、脳が何らかの現象によって発露する「表面」でしかないのだから、本音も何もない。 先日、知人が「あまり仲良くない知り合いの前で会話していると疲れることがある」みたいなことを言っていた。そこでの自分は「本当の自分」ではないからだそうだ。僕にその感覚はない。というか多分その方も、「相手の気持ち」なんていうあやふやなものを類推することに疲れているだけで、別に「本当の自分じゃないから疲れる」というわけではない・・・のだと思う。 が、まあこれも結局僕の考えでしかない。少なくとも僕の意識において、「本音と建前」を分ける衝立(ついたて)なんてないし、そもそもそんな整理整頓されていない。ぐるぐると回る混沌があり、まあ同じインプットに対しては同じアウトプットを返すから「軸がある」だなんて言われているだけでしかない。でも、他の方の意識は違うのかもしれない。 話し合いとか会話とかは、各々が都合の良い解釈をしあいながら楽しんだり、うまく物事が進むために使うツールだ。で、それで良いと思う。「ツール」というと冷淡に聞こえるかもしれないけれど、アルコールだってそういうツールだろう。
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