イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

只、想うこと

僕は何に身を預けるのか。そういうことをたまに考える。 人間が生きる世界には「社会」という大きなうねりがある。それはグローバリズム資本主義の世界もあれば社会主義的な世界も存在する。そういった人たちは「これからはXXの時代だ」などと言っているが、僕はそういった言葉にピンと来たことはない。それが資本主義でも社会主義でも民主主義でも、共和制でも君主制でも、ピンと来ない。 そもそも「社会」というものに身を預けていないのだと思う。僕にとってそれは自分を取り巻く世界を構成する一要素だ。晴れの日があれば雨の日がある、といったことと同じだ。よく「みんな社会に支えられている」と言うけれど、僕はそれと同じ感覚で「みんな鳥や植物や雨に支えられている」と思う。人間社会はただの世界における一要素。 そして僕は多分、人間社会よりも自然とか鳥とか雨とかの方に身を預けているのだと思う。それは訳もわからず引き出しにあった五千円だけ握りしめて家出した、15歳のあの夜から変わらない。 まあより正確には、「行ったり来たり」だ。一方で僕は人間社会におけるテクノロジーの粋を楽しんでいる。コンピュータ技術をキャッキャ言いながら弄んでいる。そもそも「言葉」というもの自体、人間の産物だ。 そういえば最近、なんだか社会的な議論になった時に「僕は社会から逃げているよ」と言ったら、「逃げられるのは幸せだよ」と言われた。僕からすると「逃げなければ自死しか、僕にはないんだけれどなあ」と思った。これは多分、理解されない。死を覚悟した15歳の逃避行が理解されなかったあの頃からずっとそうなんだ。
前へ
一覧
後へ