イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

中身がたくさんいる。

ここでは何度も書いているけれど、僕は自己同一性、自己のアイデンティティというものが希薄だ。この肉体を共有はしていても、場面に応じて個性が違い、それらは別人に近い感覚を持っている。生まれ持った名前も、ただこの身体に張り付いたマイナンバーのようなもの、という感覚だ。 ただ、これは「中身がない」というハナシじゃない。ここから書くことは、最近ある友人が「自分は中身空っぽな人です」と言っていて、まあその解釈についてはここで言及しないのだけれど、その発言を反芻しながら思ったことだ。 自分のアイデンティティが希薄である、ということには2つあって、1つは「中身がない」ということ。そしてもう1つが「中身がたくさんある」ということ。僕は後者だ。アイデンティティが1つに収まらない。家族の前でいる僕と友人の前でいる僕と、1人の僕と。あるいは文章での僕と対話上での僕と。日本語の僕と英語の僕と。それらのアイデンティティが全く異なるがゆえに、自己同一性が希薄なのだ。 別の友人は僕とある程度同じ感覚を持っているそうで、彼は「これが統合しなくなると、統合失調症となるんだろうね」と言っていて、なるほどと膝を打った。僕は多分失調はしていないまでも、統合が緩いのだ。僕にとって過去の自分や違う場面の自分は、「そんな人もいたねえ」感覚だ。ただ、脳のメモリを共有しているから、同じアバターの人間として振る舞える。そのメモリが弱くなると統合失調症とかになるのかもしれないね。 思えば昔には本当に別人を感じていたこともあった。だからこう、フィクションに出てくる多重人格者やビリー・ミリガンに変なシンパシーを覚えたものだ。僕の場合は分裂はしていないけれど、人格が取り変わっているというのはある程度わかる感覚だ。
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