「間」と「充満」
今年の頭ごろに日本文化というものに興味を持った。そしてなかなか良い風土の国に生まれたものだ、という気持ちと、それが失われた無情さとを併せ持っている。もっとも、僕が触れたモノなど浅瀬も浅瀬で、もっと深みに入りたいわけだが、一方で他国はどうなのだろう、という思いもある。
日本文化において「間」というものがある。これは西洋文化には現存しない概念だそうで、西洋の文化人が日本人に「おい、日本の言う"間"ってのはなんなんだ」と聞いたというハナシがある。空だのゼロだの、東洋文化には「ない」が在る。
それは時代性もあると思う。つまり、昔はそもそもモノに乏しく、世界は「ない」が多かった。そこで「ない」をデザインすることで間が生まれたわけだ。六畳一間に梅の木の枝をそっと飾る。それを部屋のど真ん中でもなく、端っこでもないところに置くことで生まれるのが「間」ってやつだ。
でも、時代性があるのなら、同じく西洋にもあるはずだ。モノに溢れていない時代に、西洋における「間」はなんだったのだろう。あるいは、西洋文化圏の方々はキリストの寂れた聖堂やベートーベンの楽曲内にある沈黙を「間」のように感じるのかな。僕にとってそれらは「充満していて、間ではない」という感覚だが、逆に異文化圏の方々は、六畳一間と梅の花を「充満している」と感じるのかな。
そういえば戦国時代あたりに日本に来たキリスト教の宣教師が「日本には神が多すぎる」と云ったそうな。これは眉唾物の逸話だが、まあ一神教からすると日本もずいぶんと充満しているな。僕らが大気中の酸素を「酸素で充満している」と思っていないような、それだけのハナシなのかもね。