此方と彼方
カイジの中で一番印象的なシーンは、金持ちのおじいさんがカイジに講釈を垂れるシーンだ。床に怪我をした青年がいて、そのおじいさんがその怪我の部位を杖で殴って「こうすると、この青年は痛みを感じるだろう。だが、私は痛まない。これが重要なのだ」などと嘯く場面だ。人でなしと思われそうだが、僕は大学生の頃、この言葉に共感した。そして今でもふとした機に思い出す。そうなんだよな、と。
これはまあ痛みでなくともそうで、たとえば先日、スペースXが上場し、同社内の技術者の何十人もが億万長者になった、という報せがあった。これに対して「技術者たちに夢を与えた」という意見があるそうだが、僕個人的には「別に僕はなってないしな」というので終わってしまう。僕は別にこのことで夢なんぞ与えられていない。
あるいは僕がスポーツ観戦をする時に、「あくまで観客者であって当事者ではない」「試合は選手たちのもの」だと思っているのも、ここに理由がある。此方(こちら)と彼方(あちら)とを明確に分けている。そして「彼方」のモノに関してはほとんど介入しないし影響もされないのだ。
たとえば僕が誰かの幸せを願う時、それはあくまで僕がそう願いたいから願うだけなのだ。人助けをする時も、僕が助けたいから助けるのだ。逆に「それは僕の困りごとじゃないね」と思っている時はあまり助けない。そして、人助けをした結果、相手が「助かった」と思ったかどうかには興味がない。僕が「助けられた」と思うことが大事。
頭のほうで「人でなしと思わそう」と書いたけれど、まあその実、人でなしではあるのだと思う。僕はこの性質でもって「僕に共感性はない」と思っている。