イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

言葉というアプリ

先日、友人たちと話した時に、「何が人間とその他の動物を分けたのか」「なぜ人間がこんなにも地球を席巻したのか」みたいな話をした。もうそこそこ前だからうろ覚えだが、そこでダーウィン進化論の話とかにもなったと思う。あるいは「二足歩行が」みたいな話もあったかな。 僕はそこで、「人間という素体が生まれたこと」と「言葉が生まれたこと」は分けるべきだな、と思いつつ会話の本題ではないので話さないでいた。人間の中でも「言葉を使う人間」と「言葉を使わない人間」では、同じ素体なのにびっくりするくらい違う生き物なのだ。 有名な話だが、ピダハン族が使う言語は現代言語に比べてとても乏しく、たとえば「数」という概念がない。「少ない」「多い」くらいしかなく、それがゆえにピダハン族は数が数えられない。それは彼らのような狩猟採集民において「数」が意味を持たないためだという仮説がある。 つまり、僕らの素体にはそもそも「数」がない。数とは、その概念を組み込んだ言語がインストールされることによって得られる技能だ。もちろん数だけでもなく、たとえば歴史や時間、論理といったものも、「言語」がもたらすものだ。そして、この言語がインストールされなければ、人間がこんな超巨大社会を生み出すこともなかっただろう。 まあこれも「じゃあなんでこんな言語が生まれたの」というと、まあ偶然だろうな、と思うのだけれど。少なくとも人間という素体が「言語を生み出しやすい」という側面はあるだろうけど、まあこのあたりは学者さんに任せる。 このあたりは示唆に富む話だが、そもそも「言葉」が後付けインストールされたアプリケーションである、ということでもある。長くなったのでまた今度。
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