イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

会話コミュニケーションというツール

僕は喫茶店などにいくと、よく顔を覚えられる。スーパーの人や薬局の人にも覚えられる。このあいだ薬局で安いお茶を買う時に、Apple Watchを家に忘れたのでスマホのクレカタッチで支払ったら、薬局のレジのおばさんに「あら、いつもの時計じゃないの?」と声をかけていただいた。「そんなことを覚えているのか」と思ったものだ。 ・・・と、こんなような話を僕はたまにするのだが、「覚えられて嬉しかったんだね」みたいな受け取られ方をしたことがある。はて、僕はただ「覚えられることがある」ということを話しただけで、嬉しい、悲しいの話はしていなかったのだけれど、受け取り手によってそのように編集されるのか、と驚いたものだ。 先述のことはなんてことのない些細な誤解だが、まあ会話コミュニケーションってやつの力はこんなもので、相手に対する理解ってのも、こんなもんなのだ。各々が都合の良い解釈を重ねながら満足したり行動を変えたりする、そのためのツールでしかない。ここに関しても僕は悲喜の話はしておらず、そういうものなのだ、というハナシでしかない。 以前、仕事で僕はさまざまな人とサシで対話していた。これは僕にとっては仕事を進めるための情報収集でしかなかったのだが、裏で「メンケア」などと呼ばれていたことがあったそうだ。これもまた誤解と都合の良い解釈だが、それでメンケアになったのなら誤解でもいいことじゃないか、と思う。 まあとはいえ、下手な作用が起きてしまうのも会話コミュニケーションの厄介なところなので、個人的には他者とのコミュニケーションは抑えていきたい。僕という人間は現象でしかないのだから、僕に対する解釈論なんて天気予報くらいあてにならない。いやまあ誰に対する解釈論もそうだね。
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