イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

目標という幻想と、疑問に思う能力

目標がなければ何をしてもいけないのか。この言葉を最近ゲームで見たんだけれど、どこで見たのか。まあ良い言葉だなと思った。そもそも「目標」なんて言葉も人が勝手に作り出した幻想でしかない。一方でそれは見立てでもあり、その見立てが人を活かすことがあるのはわかる。 僕に目標はない。「やりたいこと」はあっても、それはコロコロと移り変わる。僕のアイデンティティが移り変わるのだから当然の話だ。自然の中で過ごしたい僕と、コンピュータテクノロジーの中で行きたい僕と。それらは同居している。一方で活力がないわけではなく、その時その時で生きることに大真面目だ。そういう意味では「生きるために生きている」のだけれど、それはもう目標じゃない。 ひと昔前に流行った「目標意識」みたいなものは、「あの太陽に向かって走るぞ」みたいなモノでしかない。本当に太陽に辿り着けるだなんて誰も思っちゃいないが、そんなことを冷笑するよりも太陽に向かって走るほうが、体力がつく、というだけだ。ところがそこに管理屋が入ってきて「太陽にたどり着いたかどうか」を測り出す、みたいな寓話は枚挙に暇がない。そんなことされた日にゃ、「太陽なんてたどり着けるわけねえだろ」と冷笑したくもなる。 僕はまあ幼少の頃からこういうところを考えていた。浅慮甚だしい部分はあったが、「疑問に思う」は物心ついた時から今に至るまで。それがデザイン、つまりは「脱・記号」のスタート地点だったと気づくのはずっと後だけれど。では、こういったもどかしい齟齬を防ぐことは「才覚」か、あるいは「専門技能」なのか。 最近の僕の感覚では、「少なくとも一朝一夕に身に付くものではなさそうだ」といったところだ。
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